
いろんな人がいる
ある程度歳を重ねてきて気づいたことの一つに「人はわかり合えない」というものがあります。
かつて、物語の中であったり、有名なミュージシャンだったりが言っていたような理想は、現実には難しいことなのだ、とここ数年で実感できるようになりました。
人には、生きてきた環境で培ってきたその人なりの感覚、その人にしかない道徳や信念があって、それらを捻じ曲げるということは並大抵ではいかないわけです。そこに加えて、損得勘定が加わったり、害意があったりするのだから、みんなで仲良くお手々繋ぎましょう、なんて簡単にはいかないのが現実世界なわけです。
でも、ただ「人はわかり合えない」とだけ言ってしまうと、なんだかもうアーマード・コアに搭乗して闘争を始めるしかないような気がしてきてしまうので、もう少し違った考え方をするべきだろうなと考えていくと、結局のところ生きていくうえで重要なのは「そういう人もいる」という考え方なのではないかと気づきました。
自分とは反する意見、思想を持っている人たちを見ると、どうしても拒絶反応が出てしまうのが人間の性かもしれません。そこに反対意見を、アクションをして「是正する」という行動が必要な場合も確かにあるでしょう。
しかしながら、大抵のことは白黒どちらかに決めることは難しいわけで、そういうときに、ある種の諦めとして「そういう人もいる」と自分を納得させるという選択肢が生まれてきます。
結局私が言っているこれは、あくまで「自分を守る手段」なんですよ。例えば、私がこうしてブログに何かを書き散らしていると、どうも不快に思わせてしまったようで、攻撃的なご意見を頂戴するなんてこともあるわけです。
昔の私だったら、なんでそんな事言うだろうと悩んでしまったり、すぐ直さなきゃとか公開をやめなきゃとかって、日和ってしまったりしていました。でも最近は、まあそういう人もいるよなぁと割り切ることにしています。言われて反論したいときもありますし、もちろん相手が明確に間違っていたり、指摘をしないと不利益を被るようなときには反論もするでしょうが、そうではない「グレー」な性質のもののときには、そうやって諦めの姿勢をとってみます。
ある意味では「逃げ」ではありますが、ある意味ではこれは「余裕」というやつにも取れます。そして、私が想像する格好のいい大人は、そういう余裕を見せられる大人。
ですから、生きていく中で出会う様々な理不尽、相容れない人々のことを、長々と考え疲弊するよりも、「まあ、そういう人もいるわな」と余裕を持って眺めることが重要だと私は思うのです。
ここ最近、SNSを見ていても「なんなんこいつ」と言いたくなってしまうような人は数え切れないほどいます。
そんなとき、いらだちを覚えるよりも、少し余裕を持って眺めてみるのが、より良く生きるために必要なスキルなのではないでしょうか。