ささざめブログ

さめざめと語ります。日記、エッセイ、短編、感想、その他。

理不尽には屈しないという気概

あんまり毎日仕事のぐちばっかり書いていてもしょうがないので、プチエッセイです。

ときには強気に

生きていると、理不尽な場面に出会うことが多々あります。

自分は悪くないのに、自分のせいにされたり、どうやったって実現不可能だったことを、なぜ出来なかったのかと責められたり。

かつては、シュンとして一人で涙を流すしかできなかった私ですが、おとなになって図太くなったのか、性格が悪くなったのか、そういうときにはキッと気合をいれて跳ね飛ばすというようなことがちょくちょく出てきました。

人生で最初の理不尽として記憶に残ってるのが、小学生の頃のこと。

クラスの委員長的な私は、全学年の委員長を集めて体育祭の役割ぎめをする、みたいな会合に出させられて、クラスで取ってきた希望の役割をやりたいと手を挙げる。でも、上級生もそこに手を挙げていて、多数決で負けてしまう。

まあそこまではしょうがないだろうという話なんですが(今にして思えばそのシステムも意味不明ではありますが)、理不尽があったのはこの後。

放課後で皆既にいなくなっている自分のクラスに帰ると、後ろから担任がやってきて、「なんで諦めたんだ!」と詰られました。どうも、さっきの会議の、終盤から入ってきていたらしく、私が諦めて引き下がった瞬間を見ていたらしい。

いやいや、多数決ぞ? 上級生も居る中で? 覆すの?

今にして思えば意味がわかりませんが、その時の自分は泣くことしか出来なかった。それが、自分の中に強く刻まれた理不尽の記憶なんですね。


この話には実は裏話があって、実は私、さっきの会議で、ちゃんと抗議もしてたんですよ。

「クラスで決めてきたことだから、諦められません」みたいなことを言ったんです。

でも確か、それでもう一度投票になったかなにかして、結局覆らなかった。まあ記憶が定かじゃないので、実際の経緯は違うかも知れないんですが、少なくともそれに近いことがあった。

だからこそ、余計に理不尽だったんですよね。怒鳴られる筋合いがなさすぎる。最大の努力をしただろうと。

ちなみにその後、家で泣きながらクレヨンしんちゃんのビデオを見て心を鎮めていたところに、担任から謝罪の電話が掛かってきたのですが(別の先生から、私が抗議していたのを聞いたらしい)、そこで何を話したかは全く覚えていません。とにかく怒りだけが20数年たった今でも刻まれている。


このときの理不尽でも、今にして思えば、勝ち取れなかったという部分の落ち度は認めてもいいでしょうが、そこに対して自分がどういう努力をしたのかというところは訴えれば良かったんですよね。出来ることはしたんだと。

失敗は認めつつ、じゃあ次にどうすればいいか、というところに目を向けなきゃ行けなくて、今私はあなたに叱責を受けることは筋が違うでしょうと。

いやまあ、小学生にそんな考えができるわけがないんですが(笑) でも、今私が大事だと思ってるのは、こういう考え方なんですよね。

過ちは認める。どこに落ち度があったかは白状してしまう(ある程度良いように加工はしつつ)。そのうえで、次に繋がる発言をする。その場面では、やや強気に出ても良い。

ダメなのは、相手が説教モードに入ってしまって、こっちが黙って聞くだけのフェーズに入っちゃうケースですよね。そうなるともう、理不尽は加速していくばかりで止まらなくなってしまう。

私はちゃんと頭を使ってるんだ。考えられることはやっているんだと。そういう姿勢が、理不尽を跳ね飛ばすコツなのかもしれません。

なんでもかんでも強気に出てたらただの嫌な人になっちゃいますが、とはいえなんでもハイハイ聞いていても辛いだけ。ちゃんと戦うところは戦う。そういう大人に私はなりたい。そう思うささざめでした。