ささざめブログ

さめざめと語ります。日記、エッセイ、短編、感想、その他。

これからの幸せについて本気出して考えてみた

この記事は、「ブログクリーンアップ Advent Calendar 2025」の22日目の投稿です。

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はじめに

昨年、WEB記事のアドベントカレンダーなるものに初挑戦しました。それが木下仮名太さん主催の「ブロクリ」という企画。

ブログの下書き欄に溜まっている、「書ききれていない記事」をお掃除するという趣旨のこの企画は、毎日ブログをアップし続けている自分にとってはかなりぴったりの企画。

やっぱりね、あるんですよ。「書こう!」と思って思いついたけど、最後まで書けなかったからお蔵入り状態になってる、みたいなやつが。

今年も開催されたということで、またまた参加させていただきました。今日は、2025年末まで私の下書き欄に溜まっていた「書ききれなかった記事」を無理やり書ききって公開しちゃいます。


幸せってなんだろうね

『幸せについて本気出して考えてみた』といえば、ポルノグラフィティの2002年のシングル。

youtu.be

あれから23年が過ぎ、その曲がリリースされた頃はまだ小学生だった私も、もう三十歳を過ぎたこの頃。世界は目まぐるしく変化し、あの頃想像もしなかった未来、あるいは想像した未来には遠く及ばない劣った未来に生きているなかで、「幸せ」ってなんだろうと。特に、これからの時代の「幸せ」ってどう変わっていくんだろう、というのを考えることが増えました。

幸せについて本気出して考えてみたら
いつでも同じ所に行きつくのさ
君も幸せについて考えてみてよ
後で答え合せしよう少しはあってるかなぁ?

この歌は、実際にはもっと単純な「恋」あるいは「愛」の話だと思うんですが、もうちょっと広い視点で、人間としての「これからの幸せ」について、私も考えてみようと思います。答え合わせは出来ないけどね。

便利さは価値観を変える

テクノロジーの発展は、人間としての価値観を大きく変化させてきました。

かつては、村の単位での極狭い関係性の中だけで人間関係が育まれていたのが、インターネットに接続すれば世界中の人々と繋がることが出来るように。単に良いことばかりだったわけではなく、それらは未婚化・晩婚化・個人主義の加速など、様々な問題点の源泉となっていると思います。

この数年で登場した「生成AI」という技術は、そういったテクノロジーによる価値観の変化の大きな分岐点となるもの。

今まで、人間同士でしか生まれなかったコミュニケーション。とくに「共感」というものを、AIに投げかけるだけで得られるようになりました。誰にも言えない秘密も、AIになら言える。そんな人が既に多く生まれていると思います。

そんな状況ですから、このまま大胆な施策が打たれなければ、未婚化はどんどん加速するばかり。

これまでの人類の歴史で当たり前だった「家族」という単位で生まれる、誰かを愛し愛される中で生まれる幸せというものは当たり前ではなくなってしまう。では、そうなったときに、何が幸せになるんだろうか。

……といった感じで、ちょっと難しげにそれっぽくつらつら書いてみましたが、この感じが、下書きに入ったまま書ききれなかった要因。というわけで、ここからはもっと率直に、自分が思うところを書いていってみます。

変わるもの、変わらないもの

結局のところ、幸せとはなんであるのか。実はその問い自体には答えはなくて、人それぞれに形があるものだと思います。まあ、もう少し穿った見方をするなら、そもそも真なる幸福というものは現世には存在しない、なんて答えの人もいるかも知れませんが、私はそこまでは思いません(笑)

答えはない、といいつつ、抽象化されたものであれば、一つ提示できるものがあります、それは「満ち足りている」ということ。

わかりやすい例で言えば、やはり先程も出てきた「家族」という単位。つまり、人間関係において真に満ち足りていれば、それはすなわち幸せであるということ。愛する人が身近にいて、良好な関係性を保っていたらもちろん、満ち足りた感覚があって幸せでしょう。

でも、先程の話の通り、この先、人と人との関係は変わっていくかもしれない。そうなったとき、人は幸せを感じることが出来るのか。

結論から言えば、なんてことはなく、もちろん幸せは感じられるはずです。

そもそも、満ち足りるという瞬間は、人間関係の中だけから生み出されるものではなく、様々な状況の中に既に存在しているものだから。

面白い本を読み終わった瞬間。最高の映画を見終わってエンドロールを眺める瞬間。息が上がるような運動をしたあとにゆっくり深呼吸をする瞬間。仕事の役割を果たせた瞬間。美味しいものを食べて頬がほころんだ瞬間。

どれもこれも「幸せ」を感じるのに十分な満ち足りた瞬間で、これらの価値は変わらないものだと私は思います。

もちろん、それを愛する人と共有できれば、それは更に大きな幸福感というものに繋がるのかもしれないけれど、きっとそれは無くてはならないものではないのではないかと。なんなら、先述のAIと共有して、それで満足するというような人だって出てくるはず。

ただ、問題になってくるのは、自分の満ち足りる瞬間を他人に依存している人。誰かの反応が、行動があって初めて満ち足りるという人も多いと思っていて、そのトリガーというのが「共感」だけでよいのならAIが満たしてくれるのかも知れないんですが、現時点で特定の人物の、あるいは多数のリアルな人々の言動に依存している、というような状況があると、いつまでも満ち足りる瞬間が訪れないかもしれません。

自分にとっての幸せ・満ち足りる瞬間のことを考えたときに、「それは他人の言動に依存していないか?」という問いかけをしてみることは、なにかに気づくヒントになりそうです。

私にとっての幸せ

色々とそれらしく書き連ねてみましたが、書き進めるうちに、自分の中でも矛盾するような考えが存在することがわかってきました。

この記事を書き始めたときは、「AIが発展したことだし、テクノロジーの進化も相まって、人間同士でのコミュニケーションから生まれる幸福は減る」というようなことを書こうと思っていました。

ただ、この段まで書きすすめてみると、「自分が大切に思う人が安寧に過ごせていることや、そういう人と自らの感情を共有できることがやはり幸せだ」という意見も自分の中から消え去っていない。

冷静に考えるとそれは当たり前のことで、そもそも多次元的な要素から組み合わさった状態を、最終的に評価するときの言葉が「幸せ」というものなんでしょう。

だから、ある一点から見れば、他者とのコミュニケーションがやっぱり幸せには重要だよね、と言えるし、いやいやそうじゃなくて、もっと自分自身の欲求と向き合えばいいだけなんだよ、とも言える。

大事なのは、自分にとって、本当に欠かせないファクターがなんなのか。それを理解しておくことだと思うし、それに囚われずに、広い視野を持って、多義的な「幸せ」の中に自分が居るということを理解することのような気がします。

私にとっての要因となるものには、やはり愛する人と共に笑って過ごす時間があるというものも含まれているし、それと同時に、もっと享楽的なものもあれば、なにかを達成したいという自己実現的なものも含まれてくる。

……こうやって書くと、なんだか結局『マズローの欲求段階説』とかに遡ってしまうような気がしてきますね(笑) でも、本当にそこに幸せであることの本質があるのかもしれません。

世界が変われど、人の持つ根源的な欲求がなくなるわけではなく、変わりゆくものを受け入れながら、自分にとっての幸せを構成する要素を分解して理解する。そういうことを大事にすることが「幸せ」とはなんなのか、の答えを知るきっかけになるのではないでしょうか。

まとめ

やはり、下書きに埋もれたまま書けなかっただけあって、書ききるのが苦しい記事でした(笑)

書ききってようやくわかるのは、結局自分の中にも明確な答えが存在していないし、それはそういうものだから、というふうに思ってしまっているからなんだと思います。

強い断定の感情がないのに、わざわざ書く意味はあるのか?という自分自身への問いかけをしてしまい、どうしても書ききれなくなってしまうのが常なのですが、こういうふうに無理やり最後まで書いてみると、なんだか少しばかりは意味のある内容になった気もしますね。

良ければ皆さんも、あなた自身の「幸せ」について考えてみてはいかがでしょうか。


以上、「ブログクリーンアップ Advent Calendar 2025」の22日目の投稿でした。明日以降の投稿もお楽しみに!

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