2022年公開。映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を紹介。
あらすじ
経営するコインランドリーの税金問題、父親の介護に反抗期の娘、優しいだけで頼りにならない夫と、
盛りだくさんのトラブルを抱えたエヴリン。そんな中、夫に乗り移った“別の宇宙の夫”から、
「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」と世界の命運を託される。
まさかと驚くエヴリンだが、悪の手先に襲われマルチバースにジャンプ!
カンフーの達人の“別の宇宙のエヴリン”の力を得て、闘いに挑むのだが、
なんと、巨悪の正体は娘のジョイだった…!
紹介
ミッドサマーなどの成功で一大有名映画プロダクションとなったA24制作の、最大ヒット作。
監督は『スイス・アーミー・マン (2016)』を手掛けたダニエルズ(共作)。マトリックスやファイトクラブにも強く影響を受けた、難解SFコメディアクション映画。
近年の創作物では度々登場するマルチバース(多元宇宙)がメインテーマとなっているのだが、その設定や描写がクレイジーで馬鹿げているため、拒否反応を示している人も多い。アカデミー賞7部門を獲得した本作だが、その評価は賛否両論といったところだ。
個人的には、圧倒的にハッピーでクレイジーな映像、おバカな笑いに感動的なラストと、全てに満足した最高の映画の一作となった。
(余談だが、同監督らが2014年に手掛けたTurn Down for WhatのMVを見ると、本作のカオス・クレイジー・お下品な要素が垣間見れる)
以下は、ネタバレを含む感想を述べる。未見の方はご注意されたし。
この世界観から振り落とされないようにしがみつけ
この作品を賛否両論作たらしめているのは、やはりその「マルチバース」の設定によるものが大きい。
近年は、スパイダーマン:スパイダーバースなどでも取り扱われ、映画好きには慣れ親しんだ人も多い設定であるが、それでも振り落とされてしまった人が多いようだった。
本作でのマルチバースは、まさしく「無限の宇宙」として描かれる。人間のすべての選択には分かれ道があり、同時に別の宇宙として存在する。冴えない中国人女性である主人公のエブリンと、それに対峙するジョイは、その無限の可能性を全て駆け巡り、ありとあらゆる能力を獲得できるというような描写だ。
そんな状態の彼女たちは、本当になんでもありなのだ。ある世界線で体験したものは全て自らが体験したことにできる、特殊な状態なのだが、あまりにもなんでもありすぎるだろうというのも、批判を受けがちなポイントだ。
私は、彼女たちは「量子コンピュータ」の状態であるのだろうと思った。簡単に言うと、量子コンピュータは1であり0である。ビットの重ね合わせを用いることで膨大な確率などの計算が得意になると言われている。映画の中での説明も、A世界のエブリンとB世界のエブリンは同時に存在していて、どちらもエブリンであるのだ。
マルチバースというのは、別に新しい設定ではないのだが、今回のこの表現はなかなか新しく、きちんと(上辺上は)理論に基づいているなぁと思った。量子力学、確率論の世界の話なのだ。
そんな、難解な設定がベースにあるだけに、やはりついていくのが大変で、わけがわからなくなってしまうのも無理はないのだろう。でもそんな設定だからこそ、クレイジーでビビッドの映像が生まれているのである。
いろんなメッセージ。受け取るか受け取らないかは自由。
本作は、最終的に家族愛の話に落ち着いていく。この決着は、ある種のアメリカンムービーの王道と言った感じで、そこにガッカリしてる人も多いようだ。
私としては、それは商業映画として、そして鑑賞者として納得の行く決着をつけるという意味でも、はたまた、この膨大でハチャメチャな映画をまとめるためにも、最高のエンディングだと思った。
この映画が持つメッセージは、一体何だったのか。もちろん、単純にハッピーでクレイジーなこの2時間強を存分に楽しめればよいというのも一つなのだが、もっと深い意味を求めてしまうのが映画好きというものだ。
愛、優しさがあれば、世界を平和にできるという、普遍的な(キリシタンライクな)メッセージも一つだろう。
無限の世界を行き来するマルチバース設定からは何が得られただろうか。「君はどんなものにでもなれる」なのか、「どんなにどん底からでも這い上がれる」ということなのか。
結局のところ、わたしたちは、エブリンのように無限の可能性を実際に体験することはできない。どんなに願っても、過去は変えることはできないし、別次元の自分が自分に影響を及ぼすなんてことはない。だから、願ったってなんにでもなれるなんてのはただの綺麗事だし、どんなどん底からでも這い上がれるかというとそういうわけでもないだろう。
じゃあなんだったのかというと、私の答えとしては「今生きている世界を精一杯楽しめばいいじゃないか」ということだったのではないかという結論にいたった。映画の終盤、主人公のエブリンは指がソーセージの世界でも足が器用だ、と見方が変われば良いところが見つかるという話が生まれる。辛く苦しい世界に思えても、そうではない見方ができるはずだというのが私にとっての結論だ。
これも、物理の話が関わってくるかもしれない。物理学の世界では「光」とは、ある見方をすれば波であり、別の見方をすれば粒子である。良いところも悪いところも表裏一体で、観測者の見方によって結果は変化する。まさに量子力学の世界だ。
でも、そんな難しく考える必要もないのだと思う。
この映画の副題として書かれている中国語は「天馬行空」。天馬が大空を勢いよく駆け回るように、思想や行動などが自由なことの意だ。どんなふうに受け取ってもいいし、受け取らなくたって良い。全ては自由なのだ。
総評
馬鹿みたいに下品なコメディ部分があったり、その難解な設定だったり、一転してややチープな結末だったりと、批判されやすい部分も多い本作であったが、私は心底楽しむことができた。
10年後にもぜひ見てみたいと思わせられる作品である。