ささざめブログ

さめざめと語ります。日記、エッセイ、短編、感想、その他。

【エッセイ】自分の感情を誰かに知ってほしい(お題:わたしがブログを書く理由)

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今週のお題

特別お題「わたしがブログを書く理由

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 私は、子供の頃からブログというものを続けてきた。といっても、作っては捨て、作っては捨てを繰り返しているため、今書いているこのブログが恐らく7つ目か8つ目くらいのブログだろうと思う。

 初めは小学生の頃、パソコンを与えられて、いつのまにか某検索サイトのブログサービスに手を出していた。今では、きっかけがなんだったのか、どんなことを更新していたのかの記憶も残っていないが、それなりに精力的に更新していた記憶がある。そして、段々と更新しなくなっていて、いずれ急に新しいブログを始めて、前のブログを消してしまう。以降はそんなサイクルを繰り返してきた。

 

 今年始めたこのブログは、そんなサイクルから抜け出して、今後継続的に更新していく場所としたいと思っている。そんな、書いては捨て、書いては捨て、というのを繰り返してきた私が、なぜブログを書くのか、という問いを真剣に考えてみると、最初に思いついたのは2つの理由だった。

 

 1つは、「将来的なビジネスに繋がる可能性があるから」。どういうことかというと、ブログをいっぱい書いて、アクセスを沢山手に入れれば、いずれそれが収入へ繋がるのではないかという思いだ。もっと端的に言えば「人気者になりたい」という思いでもある。なんとも俗っぽい考えである。

 しかし、この考え方は、何度もブログを捨ててきている私には合っていないようにも思った。それに、人気を獲得したいというのが理由だったら、もっと人に見られるような記事をいっぱい書いているはずだ(単に書く能力がないだけだ、という指摘が脳内で聞こえているが、聞かなかったことにする)。

 

 もう1つの理由は、私としてはもっと高尚に思える考え方だ。「AI時代が到来したときに、人間が書くブログというのは意外と価値があるのではないかと思うから」という理由だ。

 どういうことか説明する。今後必ず来る(あるいは、今すでに来つつある)AI時代においては、インターネット上のコンテンツの多くがAIによって生成されていくだろうと私は考えている。その際、「AはBである」という事実を述べる分にはAIで問題ないのだが、「どう感じたか」という感情の部分は、人間が書いたほうが価値は高いと思うのだ。
 もちろん、人間的な感情を獲得して、AIも自由に表現が可能になる時代が来るかもしれない。しかし、そんな中においても、数値で明確にコントロールできない人間の感想というのには価値があると思うし、自分がそういったものを発信できる人でいたいと思っている。

 

 この、俗っぽい理由と、今っぽい理由の2つを考えたところで、私は「ほんとうにそうか?」と思い直した。もっと根源的に、ブログを書くという行為を続けている理由があるんじゃないか、と。そうして至った結論が「自分の感情を誰かに知ってほしい」というものだ。

 

 私は子供の頃から、感情表現が得意な方ではなかった。父は大病を患い、母は父の看病をしながら一人で働いているという環境で育ったため、なるべく親には迷惑をかけまいという意識で、多くは語らなかったと思う。友達にも何をしてほしい、何をしてほしくないなんて話も、あまりしたことがない。自分の努力を誰かに見せるというのも苦手で、こっそり勉強して良い点を取ったり、人がやらない面倒事を誰にも見られずに解決するのが好きな子供だった。

 

 きっと、日常的に自分という個を表現するのが苦手だったんではないだろうか。その代わりに私が打ち込んだのがブログという形だったのかもしれない。自分の経験や感情を、誰に話すでもなく、作品として世界に発信できるからだ。

 一度ブログとして投稿した記事は、なんとなく自分の言葉という意識から外れて、どこか他人事にも思えてくる。普段だったら恥ずかしくって言えないようなことも、インターネットの海に記事として放流してしまえば気にならなくなってくる。

 

 今も、私は自分の思ったことを誰かに話すというのが得意ではない。今日も、こうやって、ブログという形にのせて、世界にこっそり打ち明けている。