「一切皆苦」とはよく言ったもので、生きるということは基本的に辛く苦しいことが多いと思います。毎日が幸せに満ち溢れて笑顔ばかり!なんて人はそうそういないでしょう。どんなにお金持ちで満ち足りていたり、愛する人と毎日を過ごせたりしても、案外心の奥底では闇を抱えていたりするものです。
今日はこのブログで更新したいものも全く思いつかなかったので、今の私が考えている、人生を少しでも「良く」生きるため、即ち、人生の苦しみを少しでも緩和して生きるために、どんなことを考えているかを書いてみようと思います。
テーマは「関わらない」です。
他人を変えようとしない
大人になるまで気づけませんでしたが、人間同士、話し合えばわかりあえるみたいなことは、幻想だと思っています。
インターネットを見ていると、何故そんなことを言うの? 何故そんなことができてしまうの?と感じるシーンが日常茶飯事ですし、理解のできない話題で非常に多くの人が言い合いをし続けている、なんてこともよくあります。
「性悪説」というわけではないのですが、人間の根っからの性質というのは、(少なくともおとなになってから)外部からの力で変えるというのはほとんど不可能です。可能性があるとしたら、よほど多くの人から批判されたとか、よほどの権威から諭されたとか、よほどの不利益が発生して自身を省みたとか、そういうことが起きたんでもない限り、外部からの刺激でその人の性質が変わることはなさそうです。
元々の性質というのでなくても、信じているものを覆すことは容易ではなく、トラブルに発展することもしばしばあります。
なので、「それは変だ」「こうしたほうがいい」などと、なにかに付けて口を挟みたくなる瞬間、果たして本当にそれを口にすべきかというのは、多くの思考を巡らせるべきです。「触らぬ神に祟りなし」とはよく言ったもので、基本的には沈黙が正解であることが大半でしょう。
もちろん、リスクをとって積極的に口を出し、コミュニケーションを発展させることで成功している人、それを強みにしてビジネスにしている人なんてのも多くいるでしょうが、心穏やかに生きるという視点では「あえて何も言わない」という選択肢は非常に重要な一手です。
それでもどうしてもなにか口を出したいとき、決断の基準は「責任を取れるか?」という問いかけです。自分にとって、果たしてその相手はそれだけの価値があるのか。それだけ大事な相手なのか。そういったところまで思考を巡らせて初めて、自分から関わる瞬間がやってきます。
無関心をコントロールする
毎日毎日、景気が悪いと叫び声が聞こえたり、凶悪な事件が起きたり、あるいは有名な誰かが大炎上をしていたりと、暗いニュースというのはいくらでも耳に入ってきます。
無駄に共感してしまうのか、私はよくそういうニュースを見て、なんだか自分が悪いことをしてしまったかのようなばつの悪い感じを覚えてしまい、心が沈んでいってしまいます。特に、自分が好きな人や、好きとは言えないまでもよく見かけて悪く思っていないような人のスキャンダルなんかは、かなり胸が苦しくなります。
辛いと分かっているのに、そのことで議論し合っている人のいるところ(ニュースサイトのコメント欄、SNSのリプライ欄、某掲示板等)に行って、色々な人の感情を浴びて、余計にノックダウンなんてこともしばしばです。
どこかで見切りをつけて「これ以上は自分には関係ないな」「この先は興味がないな」と、割り切るということが必要なのだと思っています。そして、その先は気にしない、扇状的な情報に乱されないというのが凄く大事なのだと感じます。
何にでもアンテナを張って生きるのは、とても疲れるので、現代では少し感度を落としたくらいがちょうどいいのかもしれません。
もちろん、なんでもかんでも「興味ないね」と某ソルジャーさんのように突っぱねるのは良くないので、親しい人との会話では、普段興味のない話題でも前のめりに楽しめると、より良い関係の構築につながるとも思います。取捨選択ってやつですね。
まとめ
自分と他人、直接関わりのない出来事と線を引くというのは、良く生きるうえでの1つの手段だと思っています。
無理に相手を変えようとしたり、逆に誰かを理解しようとしたりすることは、とても疲れるし大変なことです。それがなにかのトラブルに発展することも。
もちろん、本当に必要な瞬間にはリスクをとって行動しなければいけないでしょうが、そうでないなら「関わらない」「距離を取る」という選択肢を選んでもいいんではないでしょうか。