ささざめブログ

さめざめと語ります。日記、エッセイ、短編、感想、その他。

【エッセイ】「心の拠り所」はなんぼあってもいいですから

 いろんなところに手を出して、中途半端だという自己嫌悪に陥ってしまう人はいないだろうか。私はそんな思考の持ち主だった。

 私は多趣味な人間だ。悪く言い換えれば散漫、中途半端、器用貧乏、どっちらけ、そんな感じの人間だ。何か一つにこだわって、それだけに集中して過ごすということが出来ない。

 なんとなく、そんな自分に対する嫌悪感が昔からある。私のパートナーはあるバンドの大ファンで、そのバンドのライブには欠かさず参戦し、新盤が出れば初回限定版で必ずゲット、様々なグッズも気に入ったものは財布の許す限り購入。そんな彼女のことを、私はとても眩しく思ってしまう。自分がそうではないからだ。

 私も音楽が好きで、若いころはたくさんのCDを買い、ライブハウスに足を運んだ。人生において多大な影響を受けた、今もとても大事に思うバンド・ミュージシャンというのは複数思い浮かぶ。でも、彼女のような情熱は自分にはない。無くなったら生きていけない、という存在とは言えないのだ。

 

 最初に述べた通り、私は自分のことを多趣味な人間だと思っている。もしかすると、趣味、というのはちょっと違うかもしれないが、沢山のことに興味をもって、その分野に足を踏み入れてみたという経験が多い。

 少年時代、私は漫画とゲームばかりが生きがいの少年であった。もちろん、例にもれず、戦隊ものなんかも好きだったようだが、子供ながらに一番気に入っていたのは幽遊白書だったように思う。漫画もゲームも、今でも私にとっての重要な生きがいになっている。
 また、学生時代は合唱団に所属していた。そこがきっかけなのか、音楽活動に目覚めて、今でもささやかながら楽器を弾き歌を歌うという時間を楽しみにしている自分がいる。好きなバンドがたくさんいるというのもそこからくる影響だ。
 バトントワリングをやっていたこともあった。親の影響だろうが、いまでもなんとなくダンスというものに対する興味は残っていて、やってみたいなと思うことがある。スポーツという意味では、野球や柔道も経験したが、一番熱中したのは自転車だった。行きたいところに、ノーコストでいけるというところが自分に向いていたように思う。
 インドア体質でありながら、なんとなく体を動かすことに対する嫌悪感はあまりなく、少しのあこがれを持ちながら生きてきた。ここも生きがいになりうるポイントだった。

 一方で、大人になるにつれて、プライベートでも仕事でも、室内で過ごす時間がそれまで以上に多くなった。趣味と言えるものも、パソコンのモニタを通じて出来るものばかりが増えていく。
 映画やドラマ作品に熱中したのは、高校生くらいの頃からだった。映像美や劇伴音楽にはあまり興味がないが、ストーリーを楽しむタイプだ。難しいことはわからないが、これも今でも大きな生きがいの一つである。
 YouTubeニコニコ動画の存在が大きくなり、それで過ごす時間も加速度的に増えていった。そこから派生して最初に好きになったのはプロレスだった。初めて見たのは飯伏がダッチワイフ相手に格闘する姿だった。その身体能力が驚愕して、真剣にふざけている姿に熱中した。そこから、エンターテインメントとしての格闘技であるプロレスに様々な美学を感じて、深く深く熱中した。

 お笑いも、一つの生きがいであった。学生のころからずっと好きだったのは、ガキの使いやあらへんで、だった。レンタルショップに何度も通ってDVDを借りて、ダウンタウントークを何度も見返した。なにがきっかけだったかはわからないが、その後バナナマンラーメンズのコントにドはまりし、お笑いというジャンル全体を楽しめるようになっていった。最近でも、大喜利が好きで「こんにちパンクール」という大喜利YouTuberの動画投稿を楽しみにしている。

 お笑いというところとも通じるが、オモコロやデイリーポータルZのようなWebメディアも生きがいの一つである。オモコロは、昔の品性下劣なあのころから、小奇麗になり、Webメディア業界の大重鎮のような存在となった今まで、ずっと応援しているサイトだ。
 そんなオモコロがコラボしていたカプリティオがきっかけで知ったのがクイズの世界だった。もちろん、日常的にテレビ番組でクイズを取り扱っている現代に生きていたわけで、クイズそのものは知っていた。しかし、それまで思っていたのはクイズというのは単純に知識くらべで、「答えた人がすごい」という程度の認識だった。カプリティオの動画を見る中で、問題そのものの面白さや、クイズに答える過程の楽しさなど、それまで思っていたよりもクイズというものはもっと奥深く面白いものだと知り、のめりこんだ。

 

 こんな風に、私には趣味と言えるもの、あるいは趣味とはいえないまでも、興味があったり好きだったりするものが沢山ある。
 ずっとそんな自分が恥ずかしいと思っていた。どれもこれも中途半端じゃないかと。でも、今までの人生を過ごしてきて、ようやく、そんな自分でいいのだと納得することができるようになってきた。

 このように薄い情熱を多方向にふりまくのは、ある種のリスクヘッジだ。どれか一つが倒れても、他で支えることが出来るということだ。心がふさいだ時、元気になるために採れる手段は多いほうがいいだろう。
 私は今も映画やドラマを鑑賞するのが大好きだが、いつも見たいわけではない。心がふさいだ時、映画を見ても、ただ苦しかったり疲れたりするだけだったりすることがある。そんなときは音楽を聴いたり、本を読んだり、あるいは散歩をしてみたり、別のところで気持ちを持ちなおそうとすることができるのだ。

 どんなに好きだと思っているものでも、それで365日楽しい気持ちになれるかというと、おそらくみんなそうではないだろうと思う。もしかするとそういう人も多いのかもしれないが、どちらかというとそうではない人のほうが多いのではないだろうか。
 心の拠り所をたくさん作り、日ごとに、最適な拠り所を選ぶ、そんな生き方も悪くないはずだ。