ささざめブログ

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【テレ東】『カルマの木 verseA & verseB』の感想とちょっぴり考察

紹介と感想

 先日の『祓除』の盛り上がり冷めやらぬなか、その情報を求めている中でたまたまこの「カルマの木」という番組についての情報を目にした。

 どうやらモキュメンタリーのようで、これは見るしかないと早速みてみたのだが、これがなかなか私の心にもズドンと刺さる内容であったので、ブログにその感想とちょっとした考察を書き記しておきたいと思った。

 番組はverseAとverseBの二部構成となっている。2023年11月現在、verseAはYouTubeで、verseBはTVerで、それぞれ無料視聴が可能だ。

※投稿後追記:あとからこの番組のことを知ったため気づきませんでしたが、verseBを地上波で配信後、verseAをYouTubeで公開したという流れのようです。見る順番が違えば、また景色が違っただろうと思います。

verseA

youtu.be
verseB

tver.jp

 

 制作陣にも、フェイクドキュメンタリーに精通するメンバーが参加している。詳しい情報や、放送の内容などは、以下のブログ記事にて詳細にまとめていただいているのが、参考になるだろう。

lucky-news.hateblo.jp

 

 ネタバレのない範囲で、番組の内容を表現すると、これは「呂布カルマの密着ドキュメンタリー」でありながら、コメディ的に、あるいはミステリー的、またはSF的に楽しむことができる作品であった。モキュメンタリーといえばホラー作品が大いに賑わう近年だが、そもそもはどんなジャンルとでも親和性のあるシステムであり、視聴感は初めて『山田孝之東京都北区赤羽』を観たときのような感覚を覚えた。

 特に、verseAは、ところどころ大笑いしてしまうような場面もあったのだが、ラストの結末でちょっとゾクッとくるような演出まで用意されていた。そしてverseBで表現されるもう一人の呂布カルマ。彼のような表現を借りると、正直言ってかなり「食らって」しまった。

 

 以下、放送内容のネタバレを含みます。ご注意ください!

良質なシュールコメディとしてのverseA

 verseAでは、「呂布カルマ」としてのインタビューと、「例の木」を失ってしまった呂布カルマの姿が描かれる。

 バカみたいなチェーンがぐるぐる巻きにされたアタッシュケースが突然登場し、例の木がそこに入っているという話になってからはもうコメディが加速する。ケースの中に木が入ってないことがわかってからは、まるで人が変わったようになってしまう呂布カルマ。呆然とする彼の横で、後輩を叱責する先輩スタッフ、後輩もブチギレて先輩の服をズタボロにして、まずひと笑いを掴んでくる。

 さらに、木を捜して、見つかるわけのない聞き込みスタイルでの捜索を行う呂布カルマ。果てには家から追い出されて見る陰もなくなる。そして訪れる、転落事故。

 おいおいどういう展開になるんだと思ったところに、彼が両手両足にバカみたいなギプスをつけて登場する。ここでもう私の笑いのダムは決壊した。あぁもうめちゃくちゃだよ。

 砂浜で、声を出さずにビープ音で反応しているシーンも、わけがわからないし、とにかく面白い。完成されたコメディだ。

 しかし終盤のスタッフによる「そもそも木なんてあったんですか?」という問いかけにより、一気に状況が変化する。翌朝失踪する呂布カルマ。砂浜にもどると、捨て置かれた車椅子に、遠くに見える呂布カルマの影。煙のように(非常に安っぽいエフェクトで)消えていった彼のいた場所には、例の木がぽつんと置かれていた。

 

世界線が変わってしまったverseB

 verseBでは、verseAのラストの呂布カルマが消えたあと、密着していたスタッフ(板谷さん?)以外の人々から「呂布カルマ」という男の認識自体が消えてしまったという描写からスタートする。

 人気ラッパーKEN THE 390まで登場して、呂布カルマを知らないかと聞くのだが、誰も彼のことを覚えているものはいなかった。

 そして、例の木を持ったまま、途方にくれる男が映し出される。

顔が映らないためやや悩ましいが、普通に考えて密着スタッフの彼だろう

 彼の前に置かれたカメラを、何者かが持ち出して、どこかのビルに入っていった直後、視点が大きく切り替わる。

おそらく、ビデオカメラは何者かに盗まれて、
この黄色い看板の店に売却されたという表現ではないかと思われる。
これにより、「呂布カルマ」という存在の証拠は完全に失われるのではないだろうか。

 ここからは、もうひとりの呂布カルマ。彼がラッパーにならず、漫画家として生きていたらというIFの状態、つまり三嶋裕也(呂布カルマの本名)としての姿が表現される。売れない漫画家として、パックご飯にバターと醤油をかけて貪り食う姿など、今の彼からは想像もできない。

 だが、そんな、辛く苦しい状況であろうと想像されるにも関わらず、悲壮感というのは余り感じない。むしろ、呂布カルマらしいと思わされる言動がたっぷりなのだ。茶目っ気のある言動、超現実的でありながら野心が強くあり、まっすぐに自分の信念を貫いている。

 verseAで、呂布カルマは「ずっと幸せだなってずっと思ってる。俺って不幸だなとか思ったこと一回もない」と語っていた。まさに、その姿が体現されているのだ。

 映像のラストは、呂布カルマが公園で、例の木を持って横になる男(上記スタッフの男と思われる)を見て「良い木だな」という一言を残し、終了する。うわ、良いラストだ!と感嘆の声が漏れた。

 

表現したかったことはなんだったのか

 ここからは私の勝手な推測を多分に含むのだが、本作で表現したかったのは、「フェイク」を通して、「リアル」を上回るような「真の呂布カルマドキュメンタリー」を作ろうというようなコンセプトがあったんじゃないだろうか。

 verseAでは、普段の呂布カルマからは見られないような、動揺し弱々しくなってしまった彼が見れた。これは、彼自身の内面にある弱い部分や、今のラッパーとしての立ち位置も小さな事がきっかけで崩れ落ちてしまうのではないかというような不安を表現しているのではないかと思った。

 そしてverseBでは、打って変わって、ラッパーとしての彼から離れてしまっても、彼自身の人間としての強さと魅力が表現されていた。

 普段の呂布カルマに密着しても、ただただ怖くて、何を行っても論破されてしまうような雰囲気が感じられてしまうばかりだが、フェイクドキュメンタリーだからこそ、こうして本当の呂布カルマの芯の部分が表現できたのではないかと思わされた。(まあ、脚本演出による部分もかなり大きいだろうから、さすがに考えすぎかなぁとも思うのだが笑)

 

 世界が変わっても、ハングリーに自己表現に立ち向かう彼を、このモキュメンタリーを通して見ることで、より魅力的な人物であると感じさせられる。そんな作品だった。